来迎院とは

当院は魚山橋の東宮川に沿って山道を300米程登り外界と隔絶した雰囲気をもつ天台宗の古刹である。この来迎院のある大原は、平安時代初期 (9C) 日本天台宗を開宗した伝教大師最澄の直弟子の慈覚大師円仁 (794~864) が声明(仏教歌謡)の修練道場として開山した。円仁が中国(唐)に留学した際、五台山(山西省)の太原 (タイユワン)を中心に五台山念仏(声明)が流行していたのを学び、帰国後比叡山に伝えた。この大原の地形は、中国の太原と類似していたので声明の根本道場と定められた。声明とは経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く後の邦楽 (今様・浄瑠璃・謡曲・民謡など) に強く影響を与えた。
藤原時代(10~12C)には、俗化した叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里となり、寂源が勝林院 (1013) を叡山東塔の堂僧であった聖応大師良忍 (1072~1132) が来迎院天仁 2年(1109)を建立した。創建当時の来迎院は、三尊院と称し多数の堂塔伽藍があったが応永33年 (1426) 11月火災で焼失した。この後大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心として坊が集落化する別所となり魚山大原寺と総称した。
平安時代末期(12C) 来迎院を建立された良忍上人は、円仁が伝えた声明を統一し魚山流声明を集大成された。この魚山流はその後天台声明の主流となる。盛時には、坊が49あったといわれ声明を修練する僧侶や貴族が数多く集まり妙音のこだまする里として隆盛をきわめた。そこで叡山は、梶井政所(現三千院)を設置し (1156) 魚山大原寺の統括を計った。 良忍上人以後来迎院からは、湛智、宗快、喜淵などの声明理論家を輩出し声明の本山としての血派を守り続けた。
【本尊】
薬師如来(国.重文)
釈迦如来(国.重文)
弥陀如来(国.重文)
【脇侍】
不動明王(左)
毘沙門天(右)
三尊とも藤原時代の木造漆箔寄木造で、円満な相好とやわらかい曲線により、優雅な美を構成している。


良忍上人は、尾張 (愛知県)の富田(東海市)の人。13日で叡山に登り、檀那院良賀(実兄) に就いて出家し、天台の教相と観心を学び、園城寺禅仁に大乗戒を受け、仁和寺永意に金剛・胎蔵・両部の潅頂を受け顕教にも密教にもすぐれた聖であった。 平安時代末期の叡山は、自他救済の仏道実践が行じ難くなったので、修行の地を求めて大原へ隠棲された。大原隠棲後 38才で来迎院を建てここに止住し、如来蔵を建て大乗三蔵 (経・律・論)をおさめた。良忍上人は、毎日法華経を読誦し、 大乗経典を書写し、念仏六万遍を唱え、手足の指を燃して仏に供養された。さらに音無の滝(律川300米上流)で滝に向い声明を唱えられたり、獅子が良忍上人の唱える声明の調べに陶酔し、堂内をかけめぐり岩になって残った(獅子飛石) などの三昧行に精進された。その結果永久5年 (1117) 5月 46才の時念仏三昧中に阿弥陀仏から融通念仏の教えを授けられた。融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互に融通しあって往生の機縁となることで、この教えをもって良忍上人は弟子達によって布教にあたらせ、都や畿内にその教えは流布され、やがて河内(大阪府) 平野の大念仏寺を総本山として融通念仏宗を開宗するようになる。良忍上人は、天承二年(1132)2月1日60才来迎院で入寂された。
良忍上人